2011年11月8日火曜日

衣紋道

藤原時代になりますと礼装は日本独自(中国伝来の朝服のアレンジ)の衣服が着用されるようになります。
 男子は衣冠束帯(いかんそくたい)、女子は俗に十二単{正式には(唐衣裳)からぎぬも}と言われるものです。
衣冠束帯は平安末期の鳥羽帝以前は凋装束(なえしょうぞく)といって、全体にやわらかい裂地のものでしたので、着装が下手でも目立たなかったのですが、鳥羽帝の時に剛装束(こわしょうぞく)と言って、全体を糊で固めてゴワゴワに張ったものになりました。そうなりますと下手に着ていると目立つので着付けをしてもらう人が必要になりました。
鳥羽帝の左大臣となった源有仁(みなもとのありひと)が開祖となって、着付や調度といった衣服全般に渡って専門に携わる衣紋道をつくりました。
 衣紋道では着付けに携わる人を「衣紋者」と言いました。装束を着付ける時は「前衣紋者」と「後衣紋者」の二人で着付けます。後ろ衣紋者の方が上級者です。
 源有仁を開祖とした衣紋道は「高倉流」「山科流」に引き継がれ現在も存在しています。
 凋装束から剛装束に変わった時代は武家が台頭してきた時代で、公家は容儀を整えて威厳を保たなければいけないという政治上の理由から生じたものではないでしょうか。
 私は長年着付けに携わったいますが、お稽古に来られる人の中で特にお茶を習っている人の中には、お茶は高尚なお稽古事で着付けに対しては「着付ぐらい」という侮りを持つ方が少なくありません。それは何を根拠としてそういう観念をお持ちになられるのかしれませんが、歴史が古いということからいえば衣紋道、即ち着付けは鎌倉時代の初期からのものであり、お茶は室町期以降ですから歴史の重みは着付けの方が重いのです。

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