2011年12月29日木曜日

おめでとう花嫁花婿さん




ネットで打掛を着せて欲しいのですが、やってもらえますかという電話を頂きました。
「はいやらせていただきますが」という話が今月のはじめにありました。
そして決定しましたからお願いしますという注文をいただきました。
何処で着ますかとお聞きしますと、神戸の相楽園で記念撮影をするということです。
園には着せる場所がありますかと問いますと、近くに神戸教育会館というところがあって、そこの集会場で着付てほしいということで行ってきました。
行くにあたってお名前をお聞きしたのですが、。その時に有吉さまとお聞きしたのですが、名刺交換もしないままで終えて帰ってきましたので、苗字しか分からず、苗字もこの字でよいのか分からないままアップさせて頂いています。
久しぶりに打掛を着せました。園で撮影するということですから、ポーズ付けのお手伝いをしてきました。
カメラマンもネットで探して来ていただいたそうです。綺麗なお庭で様々な景色をバックに撮影をしていました。こんなに様々な景色をバックに撮影ができれば、打掛を着た値打ちがあるなぁーと思いました。
最近は打掛を着ても鬘はつけないで洋髪のままで着る人も多くなりました。化粧も自分でされます。
いいですね。やはり打掛は豪華ですね。
最近はネットで衣裳も安く借りれます。そして式場で支度をしますと、男性は10000円位、打掛は化粧と鬘をかぶせてもらって着付けをすれば70000円位支度料が掛かります。
私は両方で15000円でさせて頂きました。
こういうやりかたもいいですね。
写真を見ていただければお分かりのように素敵な花嫁花婿さんでした。
「ありよし様」本当におめでとうございます。

2011年12月27日火曜日

消費税に付いて今年最後にもう一度怒ります

民主党というより今は野田総理ですね。
あなたは人臣を極めた人間なのに良識がないのかと言いたいです。
どの党が政権の座に付いても、今の日本の財政と将来を考えれば、消費税を上げなければ仕方がないでしょうと言っています。「どの党が政権の座に付いても」という言い方で、自分の行いを正当化し攻撃を避けようという言い回しです。
借金まみれの国の財政は総理から説明を受けなくても、私のような無学な爺でも分かっています。
だからといって、今消費税アップを言い出すのは筋違いではないでしょうか。
民主党は埋蔵金の話をちらつかせて、国民に美味しいことばかりを公約に掲げ政権を取りました。
その公約の大半は実現出来ていません。私たち国民は騙されたのです。
騙すつもりではなかったというなら、勉強不足も甚だしいということですね。
そんな失態を犯しておきながら、まだぬけぬけと公約に違反して消費税アップに手をつけようとしています。
今から議論を重ねて決定という運びになったとしても、実施は民主党の政権満了となってからのことだから、公約違反にはならないと言い出しています。そういうのは奸計の類なのです。
やらないと言ったかぎり、それに反して話を持ち出す場合は、その内容を明らかにして、国民に問わなけらばいけなでしょう。やりたければ解散をする、それが良識というものです。
我々国民は選挙でしか自分の意思をぶつける場がないのです。その国民の民意を裏切っておいて、政権を握ったら好きにしていいというなら何のための選挙ですか。
国民のための政治というのなら、こういう重大政策決定に関しては、選挙前に明らかにして民意を問うべきでしょう。
私は消費税アップに反対して言っているのではありません。民主党が消費税の話をもちだすことそのものが、筋違いですと言いたいのです。良識のある人間なら筋を通さなければいけないでしょう。
筋違いの行為を平然と行うことは国民無視の最たるものです。これには国民全体が怒らないかんでしょう。皆さんネットで怒りを叫びましょう。

2011年12月23日金曜日

心の道

西宮流のimamura様から、将棋の升田九段は、正座ができなくなり、将棋連盟(会長、大山康晴)に腰掛での対局の許可を申し出ましたが許されず「それじゃあ」と引退しました、ということを教えて頂きました。
また、「子どもに将棋を教える時、まず、礼儀作法から入り、最後も礼儀作法を復習します。将棋道ですね」とおっしゃっておられます。
日本のお稽古事の多くは道を重んじています。柔道も剣道もそうですが野球も球場に入るときに一礼をし、退出する時も一礼しています。それも道の一環ですね。
私も着付を教えている時は道を根本に据えていました。着装道と命名していましたが、装道きもの学院から着装道という言葉は商業登記をしてあるから使用するなという抗議を受け、着技道と訂正しました。
お稽古に来る人は道についてはあまり関心がなく、堅苦しいことは忌み嫌いがちです。
例えば、何で着付けと道が関係あるのか。それが理解できない人も少なくありません。
しかし、この理解は自己の人生にとっては大切なことです。
どんなものでも何故それを欲し行うのか。それは自己の人生に膨みをもたせ充実させるためです。
様々なものが存在しますが、それらは人生を充実させるための手段の一つ一つにしか過ぎないのであって、すべての手段の終極の目的は自己の人生の充実です。
これは真理であって、このことの理解が重要です。これが理解できないと、着付と道と何の関係があるのだという批判につながります。
人生の充実、幸せというのは心のあり方で決するものですから、心を高尚に豊かにしなければいけません。
様々な手段は心の豊かさに繋げなければ、お稽古をする意義が半減してしまいます。
心を豊かにするのは、技の道と合わせて、心も道も取り組むものを通して磨いていく。そういう理念の本に多くのお稽古事は道を唱えているのです。
こういう部分は日本の文化の良い点のひとつなのですが、最近は外人の方がその良さを認めて憧れる人が増えている反面、日本人は堅苦しさを嫌う傾向が強いようです。

2011年12月22日木曜日

下着に付いて

上図の清長と写楽の絵を見れば女性たちは幾枚も重ね着をしていることが、襟元や裾を見ればよくわかります。
 小袖中心の時代になるのは安土・桃山時代からです。
当時の小袖の正式な着装は平安時代の衣(きぬ)の重ね着を取り入れて、当時はまだ襦袢がありませんので一番下には肌着用として白の小袖を着て、その上に重袿(かさねうちき)に真似て色物の小袖を着て、表着(うわぎ)には柄物の小袖を着るというように三枚重ねが正式な着装法でした。
清長と写楽の絵は市井の女達を描いていますが、身分に関係なく富裕な人達は普段着・晴れ着に関係なく下着を重ねて着ています。
  和装の場合は襦袢と表着の間に重ねて着る小袖を下着と言って肌着とは区別しています。
襦袢が元禄時代くらいから着用されるようになります。襦袢が着用されるようになりますと、肌着として着用していた白の下小袖が襦袢に取って代わるのかといえば、そうではなく一番下の小袖の下に襦袢を重ねるようになります。従って上図のように3枚・4枚重なって着装するというようになります。
江戸時代には普段や礼盛装を問わず重ね着をするのが通常のきものの着方だったのですが、戦後洋服中心の時代になりますと和装は簡略化されて留袖以外は重ね着をしなくなりました。
中振袖や訪問着を着る時に襟だけを重ねる、重ね襟と言うものをつけます。あれは下着の名残で、下着の襟だけを昔のように重ねるということです。
昔は普段着・晴れ着関係なく付けましたので、重ね襟はどんな着物に重ねても間違いという事はありません。
但し下着は季節によって重ねたり重ねなかったりと調整をしましたので、春袷、秋袷の時期は重ね襟はしない方がいいですね。

2011年12月20日火曜日

正座について

三千院の釈迦三尊像

三千院の国宝の阿弥陀三尊の向かって右の観世音菩薩と左の勢至菩薩は合掌をして、跪坐の姿でおられます。仏像はほとんどが結跏趺坐(けっかふざ=座禅のときの足の組み方)の姿勢ですから、大変珍しいお姿です。
跪坐は今で言う正座から立ち上がろうとする時の姿勢ですから、正座という座り方は古代からあったことは事実のようです。三千院の観世音菩薩と勢至菩薩は「大和すわり」と言われていますので、座り方はあったようですが正座という言葉はなく、座り方も一般的でなかったのです。
江戸時代においても「正座」という言葉はなく、「かしこまる」や「つくばう」などと呼ばれていました。
正座は日本に古くからある座り方であると一般には思われていますが、その歴史は以外に新しく、座法の一つとなったのは千利休が「茶道」を完成させ正座を基本として定めてから後のことです。そして正座がさらに一般に普及したのは、明治以降のことで、正座の歴史は たった100年ほどなのです。
正座とは、元々、神道での神、仏教で仏像を拝む場合や、征夷大将軍にひれ伏す場合にのみとられた姿勢であった。日常の座法は武士、女性、茶人などでも胡座(あぐら)、立膝で座る事が普通であったのです。
平安装束に見られる十二単や神主の袍は、下半身の装束が大きく作られており、正座には不向きで、あぐらを組むことを前提に作られています。正座が始まったのは、室町時代に茶道(濃茶)の体系が確立する頃、狭い茶室に効率よく座る手法として武士社会を中心に浸透しました。
またこの頃には、建物が書院造となり畳が一般化してきたことも一因になったいるようです。
礼法というものは権力者階級から一般化していくというのが常道です。その権力者である武士の世界では、江戸時代初期に江戸幕府が小笠原流礼法を採用し、参勤交代で全国から集められた大名達が全員将軍に向かって正座をする事が決められました。それが各大名の領土へと広まったともいわれています。一般庶民に広く伝わるのは、明治になって学校教育で小笠原流が礼法師範として取り入れられてことがおおきなよういんであると言われています。
また江戸時代の中期以降は小袖の身幅が狭くなります。身丈も屋内では裾を引いて着装するように長くなり、あぐらや立膝座りでは醜いので正座が普及する一因にもなっています。

2011年12月17日土曜日

振袖の変遷

明治5年の衣服令によって礼服は洋服一辺倒になりました。明治16年に男子の紋付袴が略礼服として認められるようになりますが、その他の和服は公の儀礼の場から姿を消します。
洋服が公の場での公服となったために、和服の進展は見られず、江戸時代後期のものが模様や帯結びだけが多少変化して現在に至っているのが和服の現状です。
江戸時代の一般庶民の礼盛装は江戸褄に代表されるように裾模様が主でした。振袖においては江戸時代の後期には富裕な町人は支配者階級の振袖に倣って綸子地の総模様の振袖を着る人がいましたが、一般庶民の振袖の主流は裾模様です。
明治時代になって科学染料が普及し、型友禅なども普及したことによって振袖の模様は裾模様から総模様へと変化していきました。
大正時代の後半になりますと、洋画の影響を受けて振袖にも花卉を大きく大胆に描写する絵柄も出てきます。
  着物は時代の流行に合わせて袖たけを長くするとか、帯結びに変化を設ける以外にバリエーションのもたせ方がありません。昭和の50年代くらいからはそれまでは振袖時の帯結びは立て矢かふくら雀一辺倒であったものから、様々な変わり結びが結ばれるようになりました。
それは美容界の指導者や、きもの学院が普及してきて、人と違ったものを作り出して講習材料としなければネタがないというところから発生発展したものです。
因みに皇室の皆様は振袖をお召しになる時は古式に従ってふくら雀しか結ばれません。
古式はふくら雀ですから、結納の時に振袖をお召しになられる場合は、古式通にふくら雀に結んではいかがでしょうか。

2011年12月16日金曜日

帯結び

戦後経済復興を遂げてから一般の人たちの間でも花嫁衣裳に打掛姿が普及しました。
打掛は武家の礼服だったものですから、戦前は身分階級意識が根強く残っていましたので一般の人は身分を憚って打掛けは着ませんでした。
  花嫁衣裳は専ら黒の本振袖を着用していました。その振袖の帯結びは片方の肩から矢羽根のように斜めに形づくった立矢という帯結びです。
江戸時代から若い人は晴れ着の時は立矢に結びました。立矢は若い人の晴れ着用の帯結びとして定着していました。その立矢を斜めにしないで真横にして、真中の箱ダーツにしている部分をめがねというのですが、そのめがねの部分をお太鼓のようにしたのが「ふくら雀」です。
  上図のピアノを引いている絵は大正年間に描かれたもので、その絵からも分かるようにふくら雀が結ばれるようになるのは大正年間です。
ふくら雀が普及してからは黒の本振袖の時は立矢に結び、その他の振袖の時はふくら雀に結ぶことが定着しました。
戦後から暫くの間は振袖を着ればふくら雀に結ぶのが習わしになっていましたが、昭和の50年以降になりますと様々な創作結びが考案され、古式のふくら雀は結ばれることは少なくなりました。
きものの場合は帯結びにバリエーションをもたせる以外に趣向の凝らしようがありませんので、美容界やきもの着付け業界の手によって様々な変わり結びが創作され普及していきました。
帯結びはそういう経緯の本に結ばれていますので、礼盛装時はこの帯結ぶでなければいけないという約束事もありません。
皇室では振袖をお召しになられる時は古式に則ってふくら雀しか結ばれません。
そういう習慣に倣って一般の方も結納や御見合いの時などはふくら雀に結ばれては如何でしょうか。

2011年12月15日木曜日

有職文様

有職とは朝廷の礼儀、故実に精通している人のことを言います。
服飾も儀礼の一環で、平安時代に着ていた装束の文様を有職文様といいます。
格調の高い文様として礼服・礼装等の衣服のみならず、家具調度品の模様として広く用いられています。
 ・立涌=立涌(たてわく)は陽炎を図案化したものです。
     雲を配して雲立湧、花を配して花立涌、波を配し
     て波立涌などがあります。
・亀甲に花菱=図は亀甲に花菱を配したものです。      
亀甲は亀の甲羅を文様化したものです
中国の故実に「鶴は千年」「亀は万年」と
        あり、日本でも大変お目出度いものとして
        好まれています。
・向蝶=文様で向かい合っているものは沢山ありますが、
     向い蝶と揚羽蝶は有職文様で平安時代から好んで
     使われました。
蝶は毛虫~成虫蝶までの変態が自然の持つ不思議
     な再生、復活の力として古代の人々に力強く印象
     付け、また霊魂の象徴として種種の器物や織物の
     文様として用いられています。
・入子菱=入子菱(いりこびし)は菱文の一つで、中国か
      らきたものです。     
図は菱襷(ひしたすき)に二重三重の菱を入れ
      込んだものです。

有職文様は堅いイメージがありますので、着物の文様としてより礼装の帯の文様としてまた調度品の文様として多く用いられています。
有職文様は他にも沢山有ります。文様の謂われは中国の故実によるものがほとんどですが、それが日本人の美意識の根幹になっていますので、謂れを知ることは大変興味深いです。

2011年12月14日水曜日

伊達じめ

芸者が座敷に出る時に着る裾引きの着物を「出の衣裳」と言います。
裾引きを着る時は帯の下に着崩れを防ぐために一条という裂を帯の下に巻き付けます。
芸者の場合は赤の一条を巻いて、帯の上下に少し覗かせて着付の演出効果を高める着装をします。
その一条が博多織りの単帯に真似て、帯よりも薄く狭く、少し短いものを布の代わりに巻く付けるようになります。博多織で出来ていますので、如何にも帯が巻きつけられているように見えるところから、伊達に巻いているという意味から伊達巻きと呼ばれるようになったものと思われます。
今は前で紐のように結ぶ形になりましたので伊達締めと言っています。
この「伊達巻き」「伊達締め」と言う言葉は広辞苑にも解説されていません。
  Googleで伊達巻きと検索しますと、どこかのきもの学院が、伊達締めはきもの着付教室によって普及したように解説していますが、伊達締めは伊達巻きという形で着付教室が繁栄する以前から用いられています。
  伊達締めは本来は博多織の物ですが、着付学院が各々独自のオリジナルなものを考案して現在では写真のようにマジックで止める物、シャーアリングされている物などがあります。
 
  伊達締めは長襦袢の着崩れを少なくするため一本、着物の胸元が着崩れないように、そして同時におはし折りを整えて崩れないように一本、着装する時は2本の伊達締めを使います。
伊達締めは使用目的から考えますと、薄くてそれでいて紐状に寄ってしまわないで確りと幅を保った状態である物で、柔らかくて軽くて、結び目が大きくゴロつかないものがあれば最高です。これに異論を申し立てる人がいるとすれば着付けの知らない人です。
そういう観点からどういう伊達締めを選択すればよいかを考えますと、各きもの学院が商業的意図で様々なオリジナル商品を奨めていますが、昔から使われている博多織の伊達締めが一番使い良いと思います。
  何故博多織りの物が一番いいかは、確かな理由があるのですが、長くなりますので詳しくはここをクリックしてください。

2011年12月13日火曜日

吉祥文様

吉祥とは「よいしるし、めでたいしるし」という意味で、それを表現した文様を総称して吉祥文様と言います。本来は中国の信仰に基づくもので多種に渡っています。
 上図はその一部で、何故お目出度いのかという意味がそれぞれにありますのでご紹介をします。


・青海波=青海波(せいかいは)波文の一つで、青海勘七
が作ったものと言われています。
          中国では地図上に海を表すのに用います。
波文は他に遠波・さざ波・大波・荒波・波頭な
ど多くあります。   
広大で偉大な海の現象である波は吉祥とされて
います。
・松竹梅=歳寒三友とも言われます。     
松は中国では四季常に青く、寒い冬にも葉を改
めないところから、変わり易い人の心を戒める
ということで、松の常樹を貞徳になぞらえてい
ます。
        松の長命をことほぎ、さらにこれを人の長命
に結び付けて目出度い木とする考えが生れ
        鶴や亀との組み合わせがデザイン化されるよ
うになりました。
        松は神霊の依代(よりしろ)ひいては神霊そ
れ自体と見なされる霊木、神木と見なされ
      正月のしめ飾りなどに用いられています。
竹は四季緑を変えず、その成長と繁殖の目覚ま
しい活力、不思議な中空の幹の形態などによっ
て霊的なもの、神聖なものとみなされていまし
た。
        従って、神霊の依代として、また招代(おぎし
ろ)として現在でも欠くことの出来ないものと
して尊ばれています。
        中国では瑞鳥の鳳凰が桐の樹に宿り、竹の実を
食べて成長するという、いわば慶寿の植物とさ
れてきました。
       さらに節を正しく待するため、節操の正しいもの
の代表として梅・蘭・菊と共に四君子の一つに
数えられ、こうした考えが松・梅と結び付いて
松竹梅の観念を生み出して、広く一般に知られ
ています。

・梅=古来中国から渡って来た花で、万葉集には萩に次い
で梅が歌のテーマとされています。
      春の先駆けに梅を頭に飾ることは新しい年に希望を
かけるしるしとされて吉祥として扱われています。
また梅は厳冬に花を咲かせるのでお目出度いともさ
れています。

日本では松は平安時代に、竹は鎌倉時代に、梅は桃山時代に吉祥とされましたので、歴史の重い順で松竹梅という並びになっています。
  上図以外にも吉祥文様は沢山ありありますが、それぞれにいわれがあります。それは下記のHPに記してありますので、是非開いてご覧ください。

2011年12月12日月曜日

阿波踊りの女性の装い


阿波踊りの女性の井出は足は利休下駄に白足袋、裾は関東では蹴出しと言い、関西では裾除けという腰巻きを付けて、着物を短くたくしあげて着装し、襟には黒繻子の掛け襟をして黒繻子の帯を締めています。
江戸時代の文化文政期に「粋」という美意識が発生します。
この粋という美意識には享保の改革、寛政の改革と相次ぐ幕府の厳しい奢侈禁止令に対する町人の心意気が含まれています。
深川などの町芸者は高価な絹物の小袖に「こんなものはほんの普段着ですよ」とばかりに、小袖に黒の掛け襟をして心意気を装いで表しました。
襟は汚れやすいので汚れた場合には掛け襟だけを取り替えれるように掛けるものですが、それを絹物の贅沢なきものにも掛け襟をして心意気を表現したわけです。
その風俗が文化文政期に大流行をして礼装、晴れ着以外は黒襟をかけて着装するという装いが一般化しました。
時代劇を見ますと町人の女性は黒襟を掛けています。それと同じで阿波踊りの女性達も同じ装いをしています。
その装いは創作されたものではなく歴史を感じさせる装いです。

2011年12月11日日曜日

文様と装飾品のルーツ

古代には事ある毎に女は鬘(かつら=草花で髪を飾る)を巻きました。
上図は鬘を巻いた女性図です。
鬘は桂とも書きます。
頭に巻くターバン鉢巻のことです。この鉢巻のルーツは挿頭花(かんざし)です。
生の草花を身につけることによって、自然の草花の生命力を頂き、元気で幸せになるという生命触れ合いの信仰からきています。
人も自然の一部ですから自然と調和して、自然のサイクルと生命のサイクルが一致していれば健康で幸せになれるという信仰から、自然のものを身に付けて生命力を得ようとしました。
当初は生の植物を装身具にすることから発して、それがべっ甲、珊瑚、金銀にとってかわるようになり、植物は衣服の文様として用いられるようになりました。
和服の文様は健康で幸せになれるという信仰からはじまっていますので、全ての文様は吉祥につながっています。従って喪服と喪服の襦袢は無紋の無地の生地を使用することになっていますが、最近は色は白であれば地模様は全く関係がなく使用されています。それはこういう日本人の美意識を分かっておられない人が多いからです。
因みに花は最高の贈り物と言われています。それは上記のような意味が込められているからではないでしょうか。

2011年12月10日土曜日

現在着装時の帯の種類

A=丸帯 
一枚の裂地で作られているので模様が丸に通っているの
  でそのように言う。帯は丸帯が帯本来のもので、丸帯は
  見えないところまで織物になっているので製作費がい。
  そして堅くて結び難いので丸帯に代わる格式を有した帯
  として袋帯が出来る。
 
 B=袋帯 
今の袋帯は表と裏を張り合わせて端をかがるか縫い合
   わせて作っていますが、当初の袋帯は袋状に織られて
   いたのでこの名がある。「細雪」の小説の中に出てく
   るので昭和の初め頃につくられたものと思います。出
   来たのは昭和の初期ごろと思われますが実際に丸帯に
   代わる礼装用の帯として使われ出したのは戦後のこと
   です。
当社は留袖、振袖用のものしかなかったのですが、現
   在では盛装または紬の物も制作されています。
礼装用は白地、金地、銀地の織物で模様は有職か吉祥
   文様に限られていましたが、最近はそういう約束事が
   崩れてきています。
 
 C・D=九寸名古屋帯
江戸時代末期からお太鼓結びが流行り出し明治に
     なりますと若い人の礼装時以外はお太鼓結び一辺
     倒になります。
江戸時代には町人は贅沢な織物の帯の使用は禁止されていましたので、G図にあるような腹合わせ帯を締めていました。腹合わせ帯は丸帯の長さがありますので結ぶ時は二重太鼓になります。
そこでもっと簡単にお太鼓結びが結べるようにということで、大正年間に名古屋の女学校の先生がお太鼓結び専用の帯を創作しました。それが名古屋帯で名古屋の先生が創作しましたのでその名があります。名古屋帯は略装帯ですから礼盛装には使用できません。
 
 F=八寸名古屋帯
名古屋帯本来の形は九寸名古屋ですが、九寸名古屋は中
  に芯を入れて仕立てます。それをもっと簡単に仕立てて
  使えるように考案されたのが八寸名古屋帯です。九寸は
  仕立てる前の幅が九寸あり、仕立てると八寸の幅になり
  ます。八寸は芯を入れませんので始めから八寸の幅にな
  っていますのでそのように呼ばれています。
 
 G=半幅帯
普段着用として使用する帯です。単と小袋の二種あり
   ます。浴衣には専ら単の半幅を用いますが小袋でも間
   違いではありません。小袋は昔は羽織したと呼ばれて
   いました。
 
 H=腹合わせ帯
腹合わせ帯です。江戸時代は町人は贅沢な織物は使用
   禁止でしたので専ら腹合わせ帯を使用していました。
   晴れ着も普段着も腹合わせ帯でしたので、そういう事
   から名古屋帯には染の帯もありますが、染は柔らか物
   の着物にも使用できる事になっています。図Eはその
   染の九寸です。
 I=角帯
角帯は男性の帯です。男性の帯にも礼盛装用と街着・
   普段用とあります。写真の角帯は博多の角帯ですが博 
   多は街着・普段用です。
 

2011年12月9日金曜日

きものと帯の調和・格式の統一

着物と帯を組み合わせる時には・格式の統一 ・材質の統一・色の調和 ・柄の調和の四点を考えなければいけません。
専門的ですが最近は着物の約束事を御存知でない方が多くなってきていますので詳しく記します。
格式の統一と材質の統一は約束事ですから着物をお召しになる方は知っておかなければいけません。
(きもの)                
・留袖=礼装(最も重大な儀礼の時に着る)
・訪問着=盛装(重要なパーティーの時に着る社交服)
・色無地=盛装(神仏詣で等の通過儀礼に最適)
・付下=盛装(訪問着に準じて着る。訪問着を簡略化した
ものだから正式な社交服ではない))
・染のきもの=外出着(お礼や御見舞などの儀礼の意味で
他家を訪問する時に着る)
・紬のきもの=街着(買い物などの少し改まった時のお洒
落着)
・木綿・ウール=普段着(普段に着るきもの。街着として
も使える)
(帯)
A:丸帯
B;礼装用袋帯
C:織物の洒落袋帯
D:紬の洒落袋帯
E:織物の九寸名古屋帯
F:織物の八寸名古屋帯
G:紬の九寸名古屋帯
H:紬の八寸名古屋帯
I:染の九寸名古屋
J:半幅帯

着物には礼装・盛装・外出着・街着・普段着という格式があります。
帯にも丸帯から始まって次第に簡略化されて格式が生じていますので、着装する時はきものと帯の格式を合わせるというのが格式の統一です。

*礼装=留袖・色留袖・本振袖~着装時は丸帯または丸帯
に準じる礼装用の袋帯を使用します。但し本振袖は丸帯です。丸帯は現在は礼装用の物しかないというのが現状ですから丸帯に関しては問題ありませんが袋帯の選択です。礼装用の袋帯と言うのは文様は有職・吉祥文様で地色は白地・金地・銀地のものが最適です。

*盛装=訪問着・色無地・付下=丸帯・礼装用の袋帯・洒
落袋帯です。洒落袋帯は文様や地色に拘らずに作られた織物の帯です。丸帯・礼装用の帯と記しましたが格式の上のものを下に組み合わせて使用するのは正当です。但し逆はいけません。

*その他=洒落袋帯か名古屋帯です。洒落袋帯と名古屋帯
には織物と紬のものがありますので材質の調和のところで記します。

2011年12月8日木曜日

きものと帯びの調和・材質の統一

絹地の物には生糸と使用したものと副蚕糸を使用したものがあります。
絹は繭球から糸を繰り出して生糸にします。
繭球には蛹(さなぎ)が2-3匹入っている繭もあります。そういう繭から取れる糸を玉糸といいます。
繭は途中で糸がもつれて繰り出せないものや、最後まで糸を繰り出せない物があります。そういうのを加工して綿状にしたものが真綿です。その真綿から糸を繰り出した物が本真綿紬糸です。
加工をしている間にどうしても屑繭が何&か出来ます。それを木綿のように紡績加工して糸にしたのが絹紡糸です。絹100%と表示をしてありましても絹紡糸(けんぼうし)が使用されているものは直ぐに腰が無くなりますので要注意です。
玉糸、真綿糸。絹紡糸を総称して副蚕糸と言います。
因みに麻のように茎から糸を作ることを績む(うむ)と言い、木綿のように綿状のものを糸にするのを紡績といい、絹は製糸と言います。

昔は礼服・礼装・晴れ着・よそ行き着は羽二重・綸子・縮緬地を使用し染めや繍(ぬい)が施されていました。それらの織物は全て生糸を使用して織られていますので、生糸を使用して制作された後染物の着物が格式は上とされています。儀礼の意味を込めて着用する着物は後染めの着物と言う約束事になっています。但し、先染めの着物でお召しというきものがあります。この着物は先染め物ですが経・緯共に生糸を使用していますので儀礼用として着用出来ます。

着物と帯には生糸を使用してつくられたものと、副蚕糸を使用して作られたものがありますので、生糸を使用してある染の着物には生糸を使用して織った帯を合わせる。
紬の着物は副蚕糸を使用していますので、帯も副蚕糸を使用して織った帯を合わせるというのが材質の統一です。
但し例外が一つあります。生糸を使用して作られた染物の帯は染のきもの、先染めの着物の両方に使えます。これは昔に礼盛装普段着を問わず腹合わせ帯を使用したことにより由来します。

小紋や紬のきものをお召しになる時は、色の調和や柄の調和だけの好みで組み合わせては行けないという事です。

2011年12月7日水曜日

帯びと着物の色合せ

色目と言うのは遠目でもはっきりと分かりますので良く似合う色を選択するのは大切です。
思わぬ色の組み合わせが素敵で装いの効果を高めるということはあります。
  色目に付いては別に約束事はありませんので組み合わせは自由ですが、垢ぬけて見える色合わせがありますのでご紹介します。
 (1)
着物と帯の地色を同系色の濃淡で合わせる組み合わせです。
(2)
きものの柄色の方が目立ちますので、着物の柄色の一番目立っている色目に、帯の地色を合わせるか、同系色の濃淡で合わせる組み合わせです。
上図の写真の訪問着姿の左は裾が濃いグレーの色を使用していますので、帯は其の色に合わせたコーディーネートをしています。
右の写真も同じく着物の柄色は金色ですから帯も金色地に合わせてあります。
スッキリと垢ぬけした色合わせになっていると思いますが如何でしょうか。
(3)
昔は濃い色の着物には薄い色の帯を合わせる。
薄い色の着物には濃い色の帯を合わせるという色合わせをする人が多かったのですが、きつい色合わせですから最近はきつい色合わせを避ける人が増えています。
 これを参考にして頂ければ結構垢ぬけた色合わせになります。
 
 *柄の調和
これも約束事はありませんので自由ですが、花鳥風月は花鳥風月同志のはんなりとした雰囲気で組み合わせる、幾何学模様は幾何学模様同志の組み合わせがスッキリします。
縞模様の着物にには人形柄や置き物などの道具柄などがよく合います。
 吉祥文様には有職文様を組み合わせると重厚な組み合わせになります。

2011年12月6日火曜日

重ね色目

平安時代の礼装である十二単は白の小袖の上に袴をつけます
その上に単衣、五ツ衣、打衣、表着、唐衣、裳 を着用します。
一番下に着用する単衣は一番大きく仕立てられています。
そして五つ衣、打衣、表着と上に着用する衣ほど裄と身丈が次第に短くなるように仕立てられています。
裏は襟、襟先、立褄、裾、袖口に1cmほどふき出しに仕立てられていますので、着装した時はその部分の色の重なりが見えるように出来ています。
着装した時は色の重なりが華やかに艶やかに目に映るようにして、色の重なりを楽しんだわけです。
それを重ね色目といいます。
 松重、梅重、藤重というように季節に合わせて様々な重ね色目を楽しみました。
この素晴らしい重ね色目の感覚は、現在でも着物を染める時に地色に対して柄色を何色にするかという時に参考にされています。
 季節に応じて様々な重ね色目を楽しんだのですが、重ね方の一つに「薄洋」「匂い」というのがあります。薄様(うすよう)はさいごを白色に重ねるもので「匂い」は上から順に薄く重ねる色重ねを言います。
 そんなところから匂いは色の重なりを示す言葉として使用されています。
 

2011年12月5日月曜日

礼服と礼装

明治新政府が開府されてそれまでの武家の服制は全て廃止となります。
公家社会の服制も天皇家の諸行事用の服として残存しますが公の場では着用される事はなくなり、明治5年の衣服令によって服制が制定されます。
その結果明治15年に紋付羽織袴が通常礼服として復活しますが、それ以外は和服は全て廃されて洋服一辺倒になります。
  礼服には大礼服と通常礼服があり、武官着用のものと文官着用の衣服が制定されます。
戦後になって明治に制定された服制は改正されます。
戦前はフロックコートは文官の通常礼服でしたが、フロックコートは廃止され、その代わりとして本来は午前中にだけ着るものであったモーニングが通常礼服として用いられるようになります。
現在は第一礼服は燕尾服で第二礼服はモーニングになっています。盛装はタキシードです。
女性は第一礼服はロプ・デコルテです。昼はロプ・モンタントです。
盛装はアフターヌンドレス(昼)・イブニングドレス(夜)・カクテルドレス(夕方~夜)です。
  礼服と言うのは朝廷並びに政府における重大な儀礼時に着用する衣服ということです。
現在は朝廷における儀礼というのは一般人にはありませんので、政府主催の重大な儀礼の場で着用する衣服ということになります。
皇室の皆様は公の場には必ず洋装で出席さら和服は一切着用なさいません。それは明治に定められた衣服令に則って装いをされておられるからです。
明治を迎えて官職に就いていない一般の人は公の場に出ることはありません。しかし一般人にも重大な通過儀礼があります。その重大な儀礼の場には前時代の最高の衣服であった紋付の裾模様を儀式用として着用しました。
それが現在の留袖です。
礼装と言う言葉には礼服を着用した姿という意味と、儀式に最も相応しい衣服という意味があります。
 留袖は後者で儀式に最も相応しい最上の服ですから礼装もしくは正装と言われています。

2011年12月4日日曜日

着物は昔も高級品

中国では絹織物を錦(にしき)と言います。
旁の帛(はく)は絹のことで、絹=金と同様に貴重なものであるというところから錦と言われています。
今は機械が発達して機械で簡単に織り上げることができますので、生地代よりもその後の加工の如何によって着物の値段は設定されていますが、全て手仕事で有った時は一反の反物を織り上げるのに想像を絶する手間が掛かりました。
現在では紬や木綿物や帯類には手織りのものがありますが、染着尺の生地は全て機械で織っています。
  それが昔はどんな織物も全て手織りなのですから高価な筈です。
堺屋太一さんがお書きになられた播磨灘物語の著書には呉服屋での一シーンが描かれていて、一反15両~20両という値段が書かれています。10両盗めば死罪と言う時代ですから如何に高価であったかということです。

  江戸時代にはふんどしのレンタルがあったのを皆さんはご存じでしょうか。今で言えばショーツをレンタルしているのです。
ふんどしはたいてい晒しで出来ています。その晒しさえも大変高価だったのです。買えば250文くらいしたそうですがレンタルですと60文くらいですみ、きれいに洗濯して湯のしをして貸してくれますので、利用する者が多かったそうです。
私などは記憶にありますが、浴衣も高価ですから、ひと夏終われば洗ってのし板に張り付けて乾かして、新しく縫い直していました。高価でしたからそれだけ大切にしたのです。
そして浴衣として着れなくなると寝巻にして、そして破れて寝巻きにもならなくなれば、次はおむつにしていました。おむつにもならなければ次は雑巾にして使っていました。
上記の段模様と片身替わり模様というのがあります。
桃山時代から文様の意匠としてよく使われています。
 この文様は着物は高価ですから破れてしまっても、捨ててしまうのは勿体ないので、継ぎ接ぎにしてもう一度長着として用いたことから発生した意匠です。
きものは長着として使われなくなれば掛け布団の表に使用したり、ねんねこにしたりと徹底的に再利用をしましたので、着物は現物としての資料がすくないのです。
昔のように徹底して再利用すれば、それこそエコになり節約になると思うのですが、それでは経済がよけいに低迷してしまうかもしれませんね。どちらを選択すれば全体がうまくいくのでしょうかね。

2011年12月3日土曜日

七五三

11月15日は七五三です。
七五三は古来の髪置き(かみおき)袴着(はかまぎ)、帯解き(おびとき)の祝いを11月15日にまとめて行うようになったものです。
 
 ・髪置き
昔は2~3歳までは頭を剃っており、3歳になって初めて髪を伸ばす儀式があります。
それを髪置きまたは櫛置き(くしおき)といいます。
髪は生命の象徴ですから大切な儀式です。
 
 ・袴着
禁中・堂上では男女共に袴をはきますので、5歳7歳になると男子は紐直、女子は帯解きと言って付け紐を外して初めて袴をはく祝いをします。武家は女子は袴をはきませんので帯解きの祝いになり、男子だけが袴着を行ったものが一般に伝承されてきました。
 
 ・帯解き
付け紐をはずし帯を締め始める祝いです。これは現在は十三参りの時に行います。
女子の十三参りは別名本身の祝いとも言われています。
 この時から本身の長着を肩上げして着ます。
 
  こういう宮中の行事を武家も公家に倣って行うようになり、徳川綱吉の子の徳松が11月15日に行ったことが武家全般に広がり、一般庶民も行うようになったものです。
 この祝いは昔は嬰児、幼児の死亡率が高かったために無事に今日までこれたこと、そしてこれからも無事に成長することを念じて氏神に祈りを捧げる儀式です。
 
  最近は写真館ができて写真館で支度をして戴く人が増えています。
それは合理的でいいのですが、親御さんの中には写真館で記念撮影をしただけで終わりという人もいます。
 それはいかんでしょう。
七五三は記念撮影をするのがメインではなく、氏神さんにお詣りをすることが目的です。
前回も書きましたが最近は何のための儀式なのか、何故それが大切なのかわかっていない人が増えているのが残念です。

2011年12月2日金曜日

宮詣り

上図の産着はお客様の所に着せつけに伺った時に、今となっては大変貴重なものですから写真を取らせて頂きました。
紋の上から五色の糸で真っ直ぐ下に縫った糸と、左の方向に分かれて縫ってある二股の糸があるのが確認して頂けるとおもいます。
二股に分かれている斜めの糸の端は赤ちゃんにつながている方で、真っ直ぐに縫われている端は神様につながっています。
男の子は左斜め方向に縫い、女の子は右斜め方向に縫うことになっています。
これは赤ちゃんが災難にあったときは、その糸を神様が引っ張って助けてくれるという謂れから、昔は男女共に産着には必ず守り糸を縫いつけました。
  男の子と女の子の縫い方は異なっていて、女の子は男の子と逆に五色の糸を表に現れるように縫いつけます。その糸の先につながっている神様は氏神です。
最近はそういう謂れを御存知ない人が多くなっています。売る方の呉服屋も知らないので守り糸の謂れは廃ってきています。
  宮参りは無事に子供が生まれたことに感謝し、子供のこれからの無事を祈念する儀礼です。
男の子は生まれて31日目に、女の子は33日目に産土神(うぶすなかみ=氏神)に初めて参拝するもので、産土詣り(うぶすなまいり)とも言います。
男の子は逞しく生育することを願って、富士山や鷹などの絵柄を染めた産着を着ます。
女の子はこれから美しく咲きほこって成長して行く、春の花卉の絵柄を染めたものを着ます。
大変繊細な日本人の美意識がこういうところに現われています。
最近は産土詣りを無視して有名な神社に参拝される人が多くなっています。
何かあった時には最も赤ちゃんに身近な氏神様が守ってくれるのですから、氏神様に参拝をしなければ意味がないのです。。
神様が守ってくれるなんて迷信で何処に行っても一緒だというのであれば、初めから宮詣りなどはしなければよいのです。
  本当に赤ちゃんのことを心配して神頼みをするのであれば、宮詣りの原点に戻って産土神に参拝しなければ神頼みにはならないのです。

2011年12月1日木曜日

長着用高級生地

長着というのは大人用の本身の着物の事です。
長着用の高級白生地といえば羽二重、綸子、縮緬がその代表です。
 ・羽二重=
平織り組織ですが、筬(おさ)といって経糸を整理するものがあります。その筬に経糸を二本入れて整経して、経糸に緯糸を交互にくぐらせて織りますのでその名前があます。
上品な光沢のある柔かい織物です。男子の高級衣料の紋付はこの羽二重が用いられます。
 
 ・綸子=
上図左の地模様のあるのが綸子です。
紋織は経糸何本かに対して緯糸を一本くぐらせるというように織って、糸の交錯を不均衡にして経糸と緯糸の浮き沈みで模様を織り出すものです。
繻子組織といいますが、今はコンピューターでジャガードが簡単にできます。
ジャガードというのは紋紙に穴を空けて経糸を自動的に上げ下げされるものです。
これが出来るまでは柱の梁の上に乗って腹這いになって、人が経糸を上げ下げさせて織りました。従って、機の前に座っている人より梁の上で経糸を上げ下げする人の方が上級者であったのです。そんな大変な工程で織ったものですから、大変な高級品で支配者階級の上級者しか用いることができませんでした。
 ・縮緬=
緯糸に糊を付けて1mに対して3500~5000mの撚りを掛けて強撚糸に仕上げます。撚糸には右撚糸と左撚糸があり、それを交互に、即ち平織りに織った織物です。平織りですから朱子織よりも手間が掛からなかったのでその分安くなり、町人の礼装はこの縮緬が主になりました。
縮緬は撚糸を使用していますので幅は縮ます。幅は広く織って整理して普通の反物の幅にします。
整理すると撚糸によって畝が表面に出来ます。それが縮緬の特徴です。
 
  封建社会では男尊女卑ですから、男性が用いる羽二重が最上級で、次いで高級な綸子が次位で、支配者階級の下級者や一般庶民は専ら縮緬を用いました。そんなところから、一位に羽二重、二位に綸子、三位に縮緬というように白生地にも昔は格式が存在していました。
高級織物は綸子を用いられることが多く、帯揚げも同様で礼盛装、染物の着物には綸子の帯揚げを用いるという約束事がありました。
礼盛装、柔らか物を着用した時は帯揚げは必ず綸子の帯揚げと決まっていたのですが、最近はそういう事を知っている人は少なくなり色さえあえば何でもありになっています