2011年12月20日火曜日

正座について

三千院の釈迦三尊像

三千院の国宝の阿弥陀三尊の向かって右の観世音菩薩と左の勢至菩薩は合掌をして、跪坐の姿でおられます。仏像はほとんどが結跏趺坐(けっかふざ=座禅のときの足の組み方)の姿勢ですから、大変珍しいお姿です。
跪坐は今で言う正座から立ち上がろうとする時の姿勢ですから、正座という座り方は古代からあったことは事実のようです。三千院の観世音菩薩と勢至菩薩は「大和すわり」と言われていますので、座り方はあったようですが正座という言葉はなく、座り方も一般的でなかったのです。
江戸時代においても「正座」という言葉はなく、「かしこまる」や「つくばう」などと呼ばれていました。
正座は日本に古くからある座り方であると一般には思われていますが、その歴史は以外に新しく、座法の一つとなったのは千利休が「茶道」を完成させ正座を基本として定めてから後のことです。そして正座がさらに一般に普及したのは、明治以降のことで、正座の歴史は たった100年ほどなのです。
正座とは、元々、神道での神、仏教で仏像を拝む場合や、征夷大将軍にひれ伏す場合にのみとられた姿勢であった。日常の座法は武士、女性、茶人などでも胡座(あぐら)、立膝で座る事が普通であったのです。
平安装束に見られる十二単や神主の袍は、下半身の装束が大きく作られており、正座には不向きで、あぐらを組むことを前提に作られています。正座が始まったのは、室町時代に茶道(濃茶)の体系が確立する頃、狭い茶室に効率よく座る手法として武士社会を中心に浸透しました。
またこの頃には、建物が書院造となり畳が一般化してきたことも一因になったいるようです。
礼法というものは権力者階級から一般化していくというのが常道です。その権力者である武士の世界では、江戸時代初期に江戸幕府が小笠原流礼法を採用し、参勤交代で全国から集められた大名達が全員将軍に向かって正座をする事が決められました。それが各大名の領土へと広まったともいわれています。一般庶民に広く伝わるのは、明治になって学校教育で小笠原流が礼法師範として取り入れられてことがおおきなよういんであると言われています。
また江戸時代の中期以降は小袖の身幅が狭くなります。身丈も屋内では裾を引いて着装するように長くなり、あぐらや立膝座りでは醜いので正座が普及する一因にもなっています。

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