2012年2月18日土曜日

人生は登り坂No35

東京転勤が本格化してきました。
私は時代劇ができましたので、それまでにも東京の新宿コマなどに応援に行ったりして、東京の生活を肌で感じていました。環状線に乗りますと、乗ってる人の服装を見ますとそんなに高級な服装をしている人はいなくて質素です。私は阪急神戸線を通勤に使っていましたので、それと比較すると随分質素な服装の人が多いなぁーと感じていました。
東京はエンゲルケースが高いから、その分質素に暮らさなければ仕方がないからではないかと思って
いました。
衣裳会社の給料は安いのです。そんな給料で東京で生活をしなければいけなくなると、子供を大学に行かせてあげることができないだろう。可愛い子供と別れて単身赴任なんてもってのほかという考えでしたので、東京転勤を拒否していました。
そんな時に教えに行っている各着物学院の先生方が、「先生学院を起こしはったらいいのに、起こせば私たちはお稽古に行きますよ」と言ってくれました。
ヘッドハンチングなんてことが世間では行われていますが、そういうのは余程優れた人たちの世界のことであって、一般的には学校から正式に入社した会社を一度辞めれば、それ以上の条件の会社に再就職出来ることは日本ではまずありません。
そういう意味では私はサラリーマンとしては失格者ですから、失敗してもこれ以上に失うものもないので、そう言って下さる人たちの言葉をありがたく受け止めて、やってみようと決断をしました。
始めるに当たっては教室となる基地が必要です。給料の安い会社ですから蓄えはありません。
そこで女房の兄が有名企業の役員をしていましたので資金融資を頼みました。
私は結婚をしてから住居は女房の実家の近くに構えていました。よくあるケースです。
したがって女房の実家には頻繁に行き来をして、親に何かあると手助けをしていましたので、親の面倒を良く見てくれているといことで、心安く貸してくれました。
立派なビルのテナント料は高くて借りれません。ビルは立派で無くてもいいから安くても表通りに面した所という条件で探しました。
梅田の扇町線の表通りに面した小さいビルですが、空いていましたのでそこに決めました。
三階を教室にして二階を事務所としました。家賃はたしか11万円位だったと思います。
辞めた当時の給料は6万円代だったと思いますので、目算が狂えばたちまち倒産です。
学院の名称は様々に調べましたが、そういう名称が存在しませんでしたので「日本きもの学院」と命名しました。
いよいよ第三回目の人生のスタートです。

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