2012年12月24日月曜日

エッセイ「人生探訪」No25


甲山から見た阪神競馬場

日本の服制は随、唐制の模倣から始まっています。
そして平安時代中期以降の藤原時代には唐制のアレンジではありますが、日本固有の服飾が誕生します。
それが男性は衣冠束帯であり、女性は唐衣裳(からぎぬも=十二単)姿です。
 服飾においてはそこが頂点で、武家の台頭によって簡略化が進み、下級階層の武家の服飾が武家社会では礼装となり、一般庶民の服飾の源をなしています。そして町人の経済力の台頭により町人の服飾に工夫が凝らされて現在に引き継がれています。
 服飾は独り歩きするものではなく、必ず各時代の社会背景に大きく影響を受けて変遷していますので、服飾を語るには社会背景を理解しておかなければいけません。そういう服飾史を先ず勉強することが私にとっての優先課題です。
その勉強は私には大変困難を極めました。
 例えば衣冠束帯の構成を列記しますと先ず小袖(こそで)、大口(おおくち)、垂纓冠(すいえいかん)、単(ひとえ)、衵(あこめ)、襪(しとうず)、下襲(したがさね)、半臂(はんぴ)、石帯(せきたい)、笏(しゃく)、剣と平緒(けんとひらお)、袍(ほう)、そして袍には脇が空いている闕腋(けってき)の袍と、脇の空いていない縫腋袍(ほうえきのほう)というものがあります。
 これらの漢字を読み込んでいかなければいけません。広辞苑では載っていませんので、一字一字詳細漢和中字典で引いて読んで書けるようにします。
そしてそれらがどういう形のもので、どういう役割の服で、どういう時に着るかを知らなければいけません。
 苦労をしました。苦労でしたが学院を維持しやって行くには必須ですから必死でした。
ただ幸いだったのは、私はそのものがどういう形をしているかは、ある程度分かっていましたので理解は早かった方だとおもいます。
 服飾史を語り、その着付けも全てできる。私は学者ではありませんので、この程度できれば指導するにあたって十分に責任の果たすことが出来る。そういう自信の持てる段階までは勉強しました。
 その勉強を通して分かったことは、その気になって必死でやれば、独学でもある程度はどうにか形にはなるということです。
これで専門分野のことについては先生と呼ばれても面映ゆく感じることはないだろうというところまでには至りました。

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