2014年3月2日日曜日

「子供は社会の預かりもの」的を得た言葉(1)

 自由社会に於いては「自分自分」と利己的に考える人が増えています。
自分という存在を考えますと、親がいて自分がある。親がいなければ自分は存在しない。親がいなければ育っていかないのかといえば、そんなことはない。
社会が代わりに育ててくれる。
 親はまたその親の爺婆に育てられて存在していた。祖先,即ち仏と言われる人たちは自分たちの力だけで育って来たのか。
 太古の原始時代は各々が孤立して生きていた。だけども集団を作って生きて行く方が安全で安心して、そして楽しく生きて行けるから社会という人の群れを作って住み始めた。自分が安心して生活していくには、社会が安全で安心の出来る状態でなければ、個々の幸せの追及は望めないのは現実です。
 社会を構築して、社会の中で生活をすると、個人がいくら頑張っても及ぼす力は微々たるものです。微々たる力の寄せ集めで社会は構成されている。
自分は「頑張って働いている。誰の世話になったことがない」という人も少なくないが、そういう人も現実には社会という集団の中で、集団の力によって生かされている。それが分っていないからそういう風に言えるのです。
 また、陽や水が無ければ人間は生きて行けません。神といわれる大自然の恵みで生きて行けてます。そこが自分が生きて行けてる根本でしょう。
だから時には神社に行って、どんな状態で生きておろうと、生きて行けてることの感謝の祈りが大切なのだと私は思っています。

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