2014年10月31日金曜日

美ヶ原高原から見える御嶽山


美ヶ原高原は標高2000mあります。
御嶽山がよく見えますので、昔から御嶽教の霊場であるということです。
噴煙を上げる御嶽山が見えましたので、先ずはこの度の噴火で犠牲になられた人たちに、遠くからですが手を合わせて来ました。
長野県ではカラマツを大々的に植樹したそうで、長野県の樹木の50%を占めると言われています。
カラマツは関西地方ではあまり見かけない樹木です。樹容はメタセコイアのように円錐形の形のスマートな木で、松ですが落葉樹です。秋には黄色く紅葉します。美ヶ原高原では山上に行く途中でそのカラマツの紅葉が見れました。
大台ケ原の登山道から見える山々の紅葉も大スペクタクルなものですが、それ以上の迫力のある紅葉風景でした。

2014年10月27日月曜日

幸せさがし-92

自分はこれまで家族の為に頑張ってきたので、隠退をすれば自分のやりたいことをやらせてもらう。また少しゆっくりさせてもらう。などの言葉を耳にしますが、それって男中心の考え方ですね。
妻の方から「あなたこれまでご苦労様でした。私たち家族の為に良く頑張ってくださいました。ありがとうございます。これからは少しゆっくりなさってくださいね」と言ってくれてから、「こちらこそ永いこと支えてくれてありがとう。少しゆっくりさせてもらうわ」というのが真面な会話です。
家族の為に頑張ったという言葉の裏には「俺が頑張って働いて来たから生活が出来たのだ」という響きに繋がります。
俺が働いているから生活ができているという考えの男性は少なくありません。
そういう思いというのは、俺を敬い、俺に従え、俺を大黒柱として大切に扱えと言っているのと同じです。
男には自分中心の考えの人が多く、それが結婚生活の中で様々な形となって現れます。
例えば、結婚した当時は様々に工夫を凝らせて食事の支度をして帰りを待ちます。
でもいくら待っても帰宅しない。電話もない。やっと帰宅すると食事は済ませてきたと言う。
また早くに帰ってきて食事をしても「ごちそうさま美味しかった」の一言もない。
これは妻の仕事の大切さを全く評価していない、妻蔑視のなにものでもないということが男には分っていないのです。
旦那も仕事場では「ご苦労様良く頑張ってくれている」と上から言われれば嬉しいでしょう。それは妻も同じです。
結婚当初は、例えば料理の味付けはいまいちだとしても、夫の為に懸命に支度して帰宅を待ちます。
それに対してはねぎらいと感謝の言葉が必要なのです。
それを俺が働いているから生活が成り立っている。だから主婦業なんて簡単なのだからやって当たり前ということで、妻の働きに対して感謝の念を示さない。
そんな風に妻蔑視の態度が続けば、どんなに好きで一緒になっても、愛が冷めて行く速度が加速するのは当たり前のことです。その結果どうなるのか。定年までは我慢するけど定年になれば。子供は自立出来ている年齢ですから、財産を半分貰って別れるという女性がでてくるのです。
女性に亡くなってから夫と同じ墓に入りたいですかと聞けば、多くの女性は入りたくないと答えます。
夫の働きで生活が出来ていることは事実ですから、女性は子供のことや、自身の生活のことも考えて、横暴な男性の行いに対して、我慢、辛抱して耐えて来ていますので、墓まで一緒に入りたくないということになるのです。明日からの生活の心配が無ければ、今すぐにでも別れたいと思っている女性は山のようにいます。知らないのは男性だけです。

2014年10月26日日曜日

幸せさがし-91

平均寿命は2013年の統計で女性86歳男性は80歳です。
女性の主婦業は生涯現役です。だから女性は元気でパワーがあるのですが、問題は男性です。
生き方としては生涯現役が理想ですが、自営業以外は隠退しなければいけません。現在は65歳が現役を退く基準値になっています。そうすると退いてからまだ15年もあります。
仕事の責任を全うする達成感、喜びは、遊びで得られる楽しみとは比較にならない大きいものですから、心に大きな穴が空いてしまいます。その穴をどう埋めて行くかです。
慣れるまでは時間を持て余して、何をしてよいかもわからず、家でテレビの守役でゴロゴロとしてしまいます。
本人にとって、また奥さんに対しても非常に駄目な状態になるわけです。
女性は子供が幼い時から、幼稚園や学校を通して近場で友人や友達を作っています。
ところが男性は近くで、時には一緒に飲食したりして、駄弁れる友人がいないという人が多いとおもいます。職場では親しく付き合っていても隠退すれば友人としての付き合いはなくなります。
本当に淋しい状態になります。自分の話を聞いてくれるのは妻しかいなくなります。
その時になって、夫はこれまでに如何に奥さんを大切に扱って来たか。そこが老後を楽しく過ごせるか否かの大きなカギとなります。
自分はこれまで頑張って働いて来たのだから、隠退すれば大切に扱ってもらえると考える人がいるとすれば、世間を知らな過ぎますね。

2014年10月25日土曜日

幸せさがし-90

 貪欲に生きると言っても世の中は競争ですから、半数以上が振り分けられて、負け組となって蚊帳の外の人になってしまっています。それでも現在は豊かですから、真面目にさえ働いていれば適当に遊びで癒しが出来ますので、ぼやきながらも自制出来て平穏に生活できています。
仕事が楽しくないと嘆いていても、まだまだ笑えるゆとりがあるのです。
そんなに深刻ではないのです。
なんだかだと言いながらも、適当に楽しんで生活が出来ている間は、国の政策も個人も変革を考えないのが世の常です。
このままでは、孫達が私たちの年代に達する頃には、経済的に大変厳しい状態になることは見えています。少しゆとりのある時に、先々を見越して変革をして備えておかなければいけなのです。個人は益々厳しくなる世情に備えて確りと勉強をしておかなければいけない。それは子供には分りませんから、親が指導して確りして備えをさせておかなければいけないのです。社会で活躍している親は、経済的にもゆとりがあるからそれが出来ている親がいますが、一般的には深刻に考えない人がいて、それが格差を増大させることになるでしょう。
選挙があっても投票率は非常に低い。低いということは関心を持たなくても何とか生活出来ているからです。本当に生活が困窮すれば、主権は国民にあるのですからもっと関心をもって選挙に行くでしょう。
諸に自身の生活に直結する選挙であっても無関心な人が多い時代に何を言っても詮無いことです。
ただ真剣に考えておかなければいけないことは老後です。

2014年10月24日金曜日

幸せさがし-89

人生そのものもそうなのです。人間は欲が強い。その欲望は断ち切ることはできません。
ならば貪欲に生きる。誰もが地位と名誉とお金は欲しいと思っています。それを掴み取る道は様々にありますが、それぞれの道で貪欲に掴み取る努力をしなければ手に入れることはできません。
人は必ず働かなければいけないのです。社会の恩恵によって父や母や自分も生かされています。
だから自分も社会貢献をしなければいけないのです。社会貢献と言いますと、大仰に響きますが、自分もまっとうに働いてお金を稼がなければいけないということです。
同じ働かなければいけないのであれば、働き方によって生涯年収は大きく異なりますので、少しでも多く所得を得れるところで働く方が良いのは言うまでもないことです。
それを現実のものにするには、世の中は競争ですから競争に勝てるように努力するしかないのです。
この努力は付け焼刃的に、一夜的では競争に勝てません。幼いころからの積み重ねで能力が備わっていきます。
子供に人生論は理解できません。何も分らない子供は、毎日楽しく遊びたいと思うだけです。だから子供が競争に勝てる力を備えるか否かは、親の育て方の範疇に委ねられているところが大きいのです。
ところが、親も仕事が楽しくない。夫として、親としての責任上頑張っているという人が圧倒的多数です。そういう生活ではリフレッシュが必要です。その癒しは遊びが主です。子供は親の仕事面の頑張りを見習うのではなく、親の癒しの部分にだけに共感して努力することを怠ります。
鳶が鷹を生むとはよく言ったもので、親が仕事は楽しくないという家庭に、子供は仕事が楽しい生き甲斐だという子供が出現する。一般的には珍しい現象で正に鳶が鷹を生むです。
生き方まで世襲される筈がないのに、世間一般にはそういう風潮になっています。

2014年10月23日木曜日

幸せさがし-88

 着付でもそうですね。
お稽古に行ってけれども着れないという人が大半です。着付ぐらいその気になれば、直ぐに出来るようになると甘く見ていたけど、お稽古を始めると意外と難しい。なかなか上手に着れるようにならない。
別に指導者になりたいわけでもないし、着付が出来なくても生活に何の支障もない。着付ける順序は分ったから、後は適当に家で練習すれば出来るだろう。そう思ってなんとか着れるようになった初歩の段階で辞めてしまからです。
着付ぐらいと思っている人はおおいのですが、そもそも着付学院、教室が存在し事業として成り立っているということは、着付はそんなに簡単ではないということの証です。美容院で着付けて貰えばヘアーセット代よりも、着付料の方が高いのです。美容院は美容液代や電気代という経費分よりも大半は技術料です。その技術取得が難しいからセット代よりも着付料の方が高いのです。
そういう理屈が分れば、着付ぐらいという安易な考えは持てない筈で、最初からもっと気合を入れてお稽古に臨み、結果はもっと異なった成果になっていたのではと思います。
そして大事なことは着付も教養の一つであるということです。人が生きて行く上でお金はままならない。
男女愛も曖昧である。子供は必ず巣立って行く。自身にとって一番確かに人生の歩みを助けてくれるものは教養です。教養が豊かであれば様々な場面で楽しみを増幅させてくれます。教養というものはそんなに大切な働きをしてくれるものだという理解があれば、ゆとりがあって始めようと考えて実行に移したお稽古ですから、確かな無形の財産として身に着くまでは続けようという気持ちになっていたでしょう。そういう理解がなかったから間単に辞めてしまうのです。
技芸は頭で覚えるものでなく、お茶の作法の如く、考えることなく自然に手馴れ手慣れで進めて行けるようにならなければいけません。そういう事の認識不足もお稽古に行ったけれども着れないということの一因になっています。

2014年10月22日水曜日

幸せさがし-87

人は不思議な考え方をする動物です。
例えば、ダイエットです。世の中は贅沢になって男女共にカロリー摂取過多で肥えている人が増えています。美しく見せたいから痩せたい。またはメタボリックシンドロームで病気が心配だから痩せなければと思っている人が沢山います。ダイエットに付いては、テレビのバラエティー番組でも盛んに取り上げられています。それだけ関心が高く、ダイエットの為に大層なお金を使っている話も多く耳にします。
でも痩せることはそんなに難しいことでしょうか。
肥えたいと思えばお金が必要ですから、それが出来ないという人がいてもそれは自然な理屈です。
でも痩せたいと思えば、炭水化物の摂取を少量にしてバランスよく食べて、食べ過ぎないようにすればいいのです。そして適度に運動して筋力を付けて基礎代謝を高めるようにすることです。
本当痩せたいと思えば、どんなに忙しくてもそれくらいのことは出来る筈です。
「私は麺類が好きですから」「白飯が大好きだから」「食べるのが唯一の楽しみだから」「ストレスが溜まるから食べて癒すと」といって満腹になるまで食べて、それで痩せたいと言っている人も沢山います。
人は様々ですから、他者が介入して勝手な意見が言えませんが、本当に痩せたいと思えばそんなに難しいことではない筈です。一言でいえば食べ過ぎなければいいのです。肥えている人は必ず食べ過ぎています。「私は水を飲んでいるだけで肥える体質ですからと」肥えていることを自己弁護する人がいます。そんなことあるはずがありません。そんな人は必ず食べて過ぎているのです。基礎代謝が減退すればそれだけ食べる量も減らさなければ蓄積されていくのは当然の理です。痩せる痩せない云々は意思の問題です。
私は失礼ながらダイエットの為にお金を掛けている人をみれば、世の中は平和で豊かで結構なことだと、その滑稽さに笑ってしまいます。
有り難い時代になったものです。有り難すぎて悩んでいる時代になっちゃったということですね。

2014年10月21日火曜日

幸せさがし-86

 劇場を借りますと劇場のレンタル料だけでなく、大きな劇場には音声、照明、舞台装置などのスタッフが付いています。そのスタッフの人件費もかかりますので、プロの手を借りないで手作りで行っても大きな経費がかかります。そんな状態でお金を儲けようと考えますと、多大な出演料を生徒から頂かなければいけません。生徒さんから頂く出演料は2~3万円が限度です。2~3万円であっても生徒さん側からすれば予期せぬ出費ですから、随分と気を使いました。
お金だけのことを考えますと、しんどいだけですから開催しない方がいいのですが、発表会は2~3万円では安すぎるといえる程、大きな買い物ができますので毎年欠かさず行っていました。
お稽古事を行っていますと、月謝以外に例えば発表会の費用など余分なお金が必要です。
だけど人は何がしかで、心の癒しの為にお金を使っています。お金は心の癒しの為、楽しみの為に使うものですから、刹那的に消え去るものに使うよりは、無形の財産として残り続けるものに優先順位を付けてお金を使うのが上手な使い方です。
人は抜けている所があるから生きて行けます。ケチケチしていてもどこかで抜けているのが人の生き方です。ならば抜け去っていくものばかりにお金を使うよりも、自身の心の財産として残るものにお金を使うことです。
その最良のものはお稽古事です。若い時は様々な楽しみがあって、そういうことの大切さは分りませんが、年老いてくると、より多くの無形の財産を有していることが、日々の生活の充実に大きな効果を発揮することが実感できるようになります。
お稽古事をしていますと月謝以外にお金は必要ですが、何かに取り組んでおられる方は、行事には積極的に参加されることをおすすめします。
お金が勿体ないと考える人は初めからお稽古事はしない方がいいです。奮起させる手段を講じなくても自身の意思で頑張れるほど、人間は意思が強くないからです。

2014年10月20日月曜日

曽爾高原の芒

中秋になれば兵庫県の砥峰高原か奈良県の曽爾高原に芒を見に行きます。
曽爾には3年ほど行っていませんでしたので、今年は曽爾に行きました。
芒観賞も楽しみですが、曽爾にはお亀の湯という温泉があります。
温度はぬるめですが、お湯はヌルッとしていて、如何にもお肌に良いという感じで大好きな温泉です。
何時もは11月に入って穂が白くなった頃に行っていました。
逆光に照らされて穂が揺れる様は本当にきれいです。
穂が少し茶色の時も趣が違っていいのではないかと、今年は例年より少し早く、それも時間も遅らせて夕日に照らされた芒を観賞に行きました。
黄昏時から池の周りが点灯されます。芒を照らし浮き立たせるのではなく、池の周りの道しるべに点灯されているのです。芒は光が届くところだけがほんのりと映し出されているだけですが、これはこれで幻想的でした。

https://www.youtube.com/watch?v=l0aMyckdd2o   黄昏の曽爾高原

2014年10月19日日曜日

幸せさがし-85

商売でやっているお稽古事で、こちらから辞めて下さいというのは大変な勇気がいります。
お稽古しているとお稽古仲間の中で親しい知人ができます。その人と逢えることがお稽古事の一つの楽しみになります。それをこちらから断ち切るように辞めさせますとその反動は大きく、辞めてもつながりは残りますので、裏では悪言が蔓延します。
商売にとっては大いなるマイナスです。それはわかっていますが、それを気にしていては残って頑張っている人の意識に悪影響を与えます。プラス・マイナス差し引けば、頑張ってくれている人を伸ばせてあげることの方が大切ですから、全くやる気の希薄な人はこちらから辞めて頂きました。
やる気を向上させる手段を講じることは大切ですから、毎年大きな劇場を借りて発表会をしていました。
これは試験に勝る技能向上につながります。親しい友人や知人に声を掛けて見に来て頂きます。
そういう場で絶対に恥を掻きたくないので、皆さん必死で頑張ります。その頑張りを引き出す手段として効果抜群でした。
発表会では技能を披露したり、モデルになって歩いたり、寸劇をしたりと見に来ていただくお客さんが退屈することなく、むしろ楽しんで帰っていただけるように演技をします。技能だけでなく立ち振る舞いや歩き方、立ち姿などがよくなります。
最初のうちは恥ずかしいだけですが、慣れてくると見られることの快感を覚えるようになります。
そうなりますと不思議なことに、その人は内側から輝いてきます。
お洒落は衣服も重要ですが、それよりも本人自身の内面からの輝きがより大切です。見られることの快感を覚えれば必ず内面から輝きます。そういう意味で発表会は大きな効果を発揮しますので大切にしていました。
試験を受けるのも、発表会に出演するのもお金が必要です。そういう行事に関してはお金儲けのためと受け取る人も少なくありません。

2014年10月18日土曜日

幸せさがし-84

道場であるなんて偉そうなことを言っていますが、人の性格や考え方を変えるほどの影響力はありません。いくら信条を強く持って指導したとしても簡単に性格は変わりません。
 折角お稽古に来たのだから何としても出来るようにしたいという気持ちも希薄な人が多い。
そんな気持ちのままにお稽古していては上達しません。だから頑張らなければ仕方のないような手段を講じることも重要です。
学校の勉強は自分の将来に直結しています。そんな大切なものでも、そういうことを確りと考えて自主的に勉強できる人が何人いるでしょうか。
学校の勉強で中間試験や学期末試験がなければ勉強するでしょうか。そんなものが無くても自主的に勉強する人は確かにいますが少数です。大方の人は試験があるから一夜漬けでも勉強するのです。
自主性に欠ける人の方が圧倒的に多いのですから、試験などによって、やらなければ仕方がないように仕向けて行くもの大切な指導方です。
私の学院でも○○科というように段階を設けていて、その段階の内容が取得出来ているかを試験して、次に進むことを希望している人はその試験に合格すれば進んで頂くということにしていました。
毎週稽古に来て進み具合を見ていれば、試験をしなくても分るのですが、試験があるから恥を掻きたくないので頑張るという人が殆どで、試験があるからそれを機に大幅に技能が向上していくことは明白ですから行っていました。
でも、その試験が嫌さに辞めて行く人も多くいました。また試験が嫌だから様々に口実をつけて試験を回避しようとする人もいました。そういう人は、同じクラスで親しくなったお稽古仲間が上のクラスに上がって行き、淋しさを感じていることは分っていても無試験では上のクラスに上げませんでした。
試験を嫌って回避しようと口実を付けます。3回は「そうですかわかりました」と見逃してあげましたが、そんな状態では技能向上しないことは明白ですから、4回目には「そんな気持ちで幾らお稽古しても時間とお金の無駄遣いになりますから辞めて下さい」と言って、こちらから辞めていただきました。

2014年10月17日金曜日

夢コスモス園(亀岡)

コスモスが美しい季節です。
武庫川の河川敷にも広大なコスモス園がありますが、それよりも規模が大きくコスモスの品種も多く植栽されています。ナビで夢コスモス園で検索すれば出ます。
500円で松茸ご飯も頂けて、今は黒豆の収穫期ですから900円で枝付の黒豆も買えますます。帰って早速茹でましたが美味しかったです。
案山子展も行われていて楽しめること確実です。

2014年10月16日木曜日

幸せさがし-83

随分以前の話ですが、森繁久彌の奥さんが、お手伝いさんが来た時は、猫を被ってもらいますと話されているのを聞いたことがあります。
既に出来上がっている性格を簡単に変えることはできません。だけど従順でなければ使う方はこまります。性格まで直せといっても無理なことは分っていますので、家に来てくれている間は自我を押さえて猫を被って従順なそぶりをしておいて欲しいということです。
これは大変薀蓄のある言葉です。学校でも、お稽古場でも同じです。この先生は怖い。自分の信条を貫いてひるまず突進してくる。それが分っているとそれに逆らえば、逆らった本人が恥を掻き、値打ちを下げてしまうことになりますので、そういう人に対しては、心では相手を蔑んでいても表面に出さないで猫をかぶります。猫を被っていると、自分は不本意でも周囲が先生の指示通りに動いていれば、自分も猫を被って一生懸命に頑張っている振りをします。
頭から逆らって動かないよりも、本人が不本意であっても、猫を被らせて動いてもらった方が少しでも前進します。
教室は様々な性格を持った人が集まる人間模様の坩堝です。その中で指示をして人を動かすには、相手に猫を被らせるだけの迫力がなければいけません。
それには、お金を頂戴していることの感謝と使命感、良くしてあげたいという愛情が根底になければできません。愛情の無い人は真の戦いはできません。
こういうことを述べますと、正にお稽古事や学校は道場です。人間の言動は先ず心があって、その心によって言動が発生しますので、心を錬磨することは非常に大切です。お稽古事は技能を指導し、技能を通して心の面を考えてもらう場です。
心の面を重視しなければいけない道場で、着物を着るのに余計なお金を使わなくても、上手に出来るようになることが分っている。
また道具を使ったからといって、早くできるようにならないことも分っている。それなのに新装小物をセットで販売するシステムは、道場ではそぐわないと思いましたので、昔ながらの小物を使った指導をおこなっていました。お金儲けの下手な経営者でした。

2014年10月15日水曜日

幸せさがし-82



 お稽古事の場合は、皆さん強い個性を持った人の集まりです。
口では先生と言っていても、腹の中では侮りの気持ちでいる人も少なくありません。
募集をかけて来てくださいとお願いはしますが、行くか否かの最後の結論を出すのは当人です。自己責任で自分のためにお稽古に来るのですが、先生に対して従順に従う気持ちを持っていない人も少なくありません。
お稽古事の先生というのは、長年の経験で培ってきた技能を切り売りするわけです。培って得た細かいコツやテクニックというものは宝物です。
その宝物を自分で手に入れるには何年かかるかわかりません。それを惜しげもなく見せて、手とり足とりで指導してくれるのですから、教えられるものにとっては有り難いことであり、感謝に値することです。
でもそういう理解はなく、お金を出しているのだから、どう取り組んでも自由だと考えている人も少なくありません。
そんな考えの人は何に取り組んでも、絶対に上手という域に達することはありません。何故か、自我が強くて教えて頂いている先生の物真似が真面目に出来ないからです。
駄目な指導者は、生徒がそういう人であることが分っていても、注意することが出来ません。それは嫌われたくない、あの先生は良い先生だと言われたいという気持ちが強いからです。
注意するどころか逆に生徒に媚びてしまう指導者がいます。最低の指導者です。
そんな人は指導者には向いていませんので直ぐに辞めるべきです。
お稽古事の世界だけでなく普通の学校でもそんな先生がいるのではないでしょうか。
私たちは直接生徒からお金を頂いています。普通の学校の先生も給料を貰っています。
お金を頂いて指導する限りは、なんとしても出来るようにしてあげたい。そういう情熱の持てない人は先生をやめて他で稼ぐべきです。教えることは戦いです。戦う気持ちの持てない人は指導者には不向きです。愛情の解釈を間違っている人が多いのです。
お金は大切です。そのお金の重みを感じ取って指導すべきです。生徒募集の看板を掲げるか否かは関係ありません。

2014年10月14日火曜日

台風一過

嵐去りて季節がすすみ 冷たい風が肌に触れて流れ
台風一過の青空に 雲の流れはまだ速い
枯れて朝日に照らされた穂も揺れている

2014年10月13日月曜日

幸せさがし-81

学院を開校した時は、時代衣裳専門学院として開校しましたので、大手の学院の先生方が120人くらい来てくれました。
一年のカリキュラムを組んでいましたので、一年経った段階で残ったのは3人だけです。
それからは学院維持の為にアルバイトをして大変な時期が何年か続きました。
そんな時に、教室が空いていますので、貸そうということになり募集をしました。場所は梅田の表通りに面したテナントでしたので、直ぐに習字の先生が借りたいとお見えになりました。
話が成立して、「先生看板はどうされますか」とお聞きしました。そうすると、私はまだ三十歳代の若輩者でしたから、私を諭すように「生徒募集と看板を掲げますと。お願いして来てもらうことになる。お願いして来てもらって、取り組み方が悪くても注意することは出来ないでしょう。ですから習字は募集の看板は掲げないのです」と言われました。
それを聞いてあきれてしまいました。先生と呼ばれる職業の人は沢山おられますが、ボランティアで働いているわけではありません。前記しましたがお稽古事は全てサービス業です。家元制度で歴史があるお稽古事もサービス業なのです。歳が明ければ税申告をしなければいけないのです。
皆さんお金を頂いて成り立っています。
例えば、ボランティア活動であれば、注意をうければ不快になることは分っていますので、少々出来が悪くても「いいですよ。グッドです」と言っておけばそれで済みます。責任なんか感じなくていいのです。ところが大切なお金と時間を費やして来てくれている生徒ですから、何としてでも出来るようにしてあげる責任と使命があります。だから強く注意すれば辞めてしまうかもしれない。辞めれば経営的にマイナスになるという考えをしないで、逆に辞めても構わないと腹を括り注意しなければいけないのです。

2014年10月12日日曜日

幸せさがし-80

 学院経営は月謝だけでは成り立ちません。これは何処の学院も同じだと思いますので、私の知る限りでは、入学時にセットで新装小物を販売する以外に、和装小物、呉服販売は勿論のこと、化粧品、ランジェリー、宝石、なども販売しています。
私の学院でも前記しましたように、皆さん新しい着物や和装小物を他所で購入して持ってこられていましたので、学院でも市価よりも安くするから、展示会をした時は来てくれますかと問いますと、見せて欲しいと多くの生徒さんから返事が帰って来たので、呉服と和装小物販売だけはしていました。
学院販売の場合はどうしても義理が絡みます。展示会にお誘いすれば嫌だと思っていても生徒側としては断りにくいと思います。それは重々承知していましたので、生徒の皆さんには極力プレッシャーをかけないように案内状を渡すだけにしていました。
それでもプレッシャーが掛かることには変わりはないとおもいました。そこで、学院運営は月謝だけでは成り立ちません。義理買はしないでいいです。展示会に行かなければ気まずいことになるのではと考えないように。「ただし他所で購入するのなら絶対に安くするので、協力して下さいね」とだけは明確に伝えていました。
私は芸能界で衣裳の仕事をしていましたので、帯ときもののコーディネートは自信がありました。
自分の視点で帯ときものをコーディネートさせて、仕立ても裏もセットで安く提供していました。
皆さん本当によく協力して下さいました。
生徒さんたちの協力があるから学院は成り立ちますので、感謝の意を指導する方に傾注させて、益々厳しく使命を全うすべく指導いたしました。買ってくれるからと、経済的なことを考えて、生徒にへつらうようなことをすれば、生徒の皆さんは付いて来てくださらなかったと思います。
お金を頂戴している。学院が成り立つように生徒の皆さんが協力してくださっているからこそ、生徒の皆さんの為に信念を貫かなければいけないと考えていました。
子供が可愛ければ厳しく躾をしてあげなければいけないのと同じです。

2014年10月11日土曜日

幸せさがし-79

 学院といえども学校法人ではなく商号の一つにすぎない。事業である限りはお金儲けをしなければ成り立ちません。
だけども道を唱えている限りは、道理に反したシステムは私には抵抗がありました。
別に商売優先のシステムにしても間違いでもなく、違反でもありません。
現在でも何回か無料で教えますとテレビ宣伝をしている所があります。
何回かで上手に着れる筈がありません。現在は日本女性といえども自分で着物が着れなくても恥ずかしいという時代ではありません。そんな時代にお稽古するのであれば上手に着て、誇らしげに闊歩して良い気分を味わい、心の潤いに繋げるためにお稽古すべきです。その上手が3か月や6か月で出来ることは普通ではありえません。そんな簡単なものであれば着付教室が事業として頭から成り立ちません。
そういうことは分っていて無料を唱えるのは人集めの手段です。こういう策は別に違反でも何でもないのですが、簡単に出来るような錯覚を与えることは、募集の仕方としては好ましいやり方ではないと私は思います。あくまでも選択する方の責任なのですが、消費者が正しい判断をするには、正しい情報を流す責任が関係者にはあると思います。
美しく着ることは技能の問題ですし。楽で着崩れない着付、そして手早く出来るようにすることも、小物や道具は関係なく腕前の問題ですから、私としては道を唱えている限り、新装小物を制作して売るということはしませんでした。
それだけに何時までも貧乏学院でした。運営している限りは学院を大きくしたいと思う気持ちは強かったのです。そのためには宣伝費に経費を掛けなければいけません。学院運営で一番経費が掛かるのは宣伝費とテナント料です。知名度の高い、華やかさを感じる所に人は集まります。それを考えれば経費の掛けれるシステムにして、収益増進をはからなければいけなかったのですが、それが私にはできませんでした。経営者としては無能でした。

2014年10月10日金曜日

幸せさがし-78



 着付で難しい個所は帯の巻き付け方、おはし折りの始末、裾合わせです。
掲載してある写真は京都に散策に行くのに、私が着せてあげた妻の着物姿です。
帯はお太鼓の形づけが一番難しいと思っておられる人が多いのですが、形作りはお稽古すれば直ぐに出来るようになります。形づけよりも難しいのは巻き付ける位置と巻き付け方です。帯は写真を見て頂ければわかるように、脇にいくほど高くなるように見える、脇上がりに巻き付けないとキリットした粋さがでません。これはお太鼓の形づくりよりも難しいのです。
おはし折りは身体の中心部分にあり良く目立ちますので、帯の下線に平行に身体から浮かないように始末出来るようにすることが肝要で、これも難しい個所です。
そして着物姿を美しく見せるには着物を身体全体に添わせた着装をする。前から見れば上から下に裾すぼまりのシルエットにすること。そして横から見れば、バストトップの位置が一番高くて、裾に行くほど内側に入るシルエットを作ることです。
そのためには裾合わせをするときは、両脇の着丈を左右対象の長さにして、立褄を下ではねないで垂直に近いラインが出るように巻き付けることです。
素晴らしい着物姿であるか否かは、人が前から見た姿で素敵だと感じることであって、後ろの帯結びは関係ありません。素敵であるか否かは全体のシルエットづくりを述べて様に作り上げる事と、後は立ち姿、歩きかた、所作などの本人自身の雰囲気で決まるものです。
そこには自身を美しく見せるための心構えと、そして着付の技能だけが関係していて、小物や道具などは全く関係がないのです。
美しく着るには腕を磨く以外に術はないのです。この理屈は簡単なようで理解が難しいのです。経験がないと頭だけでは理解できないところですから、簡単だとか楽だとかの話に乗せられてしまうのですね。
人は自分では賢いと自負していますが、経験をしなければ分らないことが山ほどありますね。
人は死ぬまで勉強といいますが、ほんとうにそう思います。

2014年10月9日木曜日

幸せさがし-77

 性格や考え方がお稽古の成果に表れてきますので、教え方のマニュアルをただ進めているだけでは大きな成果は上がりません。
指導は正に道ですね。技能習得を通して、前向きな考えにシフトするように心の面に刺激を与える。そういう指導でなければ成果が上がらないのです。
ですから、私は「着技道○○学院」という商号にしていました。
道とは技能の道と人が守るべき条理を共に考えるということです。お金を稼がなければ学院は維持していけません。
お寺さんは決して自分でお金のことは口にしません。それと同じで月謝だけで成り立てばものが言いやすいのです。道とお金はそぐわないのです。
月謝だけでは経費で全て消えてしまうのが学院運営の実態です。
 ですから大手の着物学院は自社の小物を入学時にセットで販売しています。各学院オリジナルの新装小物と同じような形態の無印物は市販されていますが、学院オリジナルの物は大変高いのが実態です。
使用原理は同じですがオリジナル製品を各学院が作る、その理由は市販されていませんので値段設定が自由に出来るというメリットがあるからです。
私も長年芸能界で着付に携わっていましたので、こういう物があれば便利だという案は幾つも持っていました。小物をセットで販売してる学院は、入学者全員にセットで売れますので経営的には楽です。
そういうシステムも一つの経営法ですから、私も案を実用化させて使用しようと思ったことがあります。
ところが、小物制作は大量に作らなければ高くなります。大量に作ればそれを必ず売らなければ在庫になってしまいますので、これを使えば便利だと理由付けをして捌く手段を取ってしまうのは目に見えています。昔からの使用されている小物で着付けても、楽で、着崩れがなく、綺麗に、そしてその方が仕事も早くできることは私が一番分っています。それが分っていて、経営を優先させて新装小物を売りつけるのは道に反することだと考え、私は昔ながらの腰紐や小物を使ってお懐古していました。

2014年10月8日水曜日

幸せさがし-76

 形は心の表れといいますが、お稽古事に携わっていますと正にその通りだと思ってしまうことが多々あります。
例えば、約束が重複したとします、通常は先に約束を交わした方を優先に考えて、後からの約束は断ります。ところが後の方がより自分が楽しめると感じた場合は、後先関係なく自分がより楽しめる方を選択し、先の方は体よく断ります。
お稽古も重複して行っている人も少なくありません。着付の場合はお茶、お花のお稽古をしているので必要に迫られてお稽古を始める方も少なくありません。
そういう人は自分がより楽しめるのは着付のお稽古ではありません。着付は刺し身の妻のようなものですからお稽古に熱が入りませんので、今は着付だけという人と比較すれば上達は遅く成ります。
人の考えや思いは千差万別ですね。例えば、お茶のお稽古の為にという考え方はおかしいのですが、それに気づかず自分では正しいと感じている人は多いのです。
何に取り組んでも根本目的は心の潤い、自己の人生の充実のためなのです。全ては自身の人生の充実に繋がる手段の一つなのですから、分け隔てなく自分自身の為に頑張るのが、正しい考え方なのですが、そういう論理よりも好き嫌いの感情に振り回されている人もすくなくありません。
当初は全く考えていなかったのに、お稽古に来てから、「私もあの先生のように指導者になりたいな」と気持ちが変わっていく人は、先生の指導に対してすごく従順にお稽古しますので、物凄く早く上達します。正に形は心の表れです。
三つ子の魂百までと言われているように、既に出来上がっている性格を変えるなんてことは出来ません。
それは無理ですが、良い刺激を与えることは出来ます。そして良い刺激を受けた人だけが上手といえる段階まで上達することが事実ですから、指導の責任も重大なのです。

2014年10月7日火曜日

幸せさがし-75

着付は昔は衣紋道(えもんどう)と言っていました。平安後期の鳥羽天皇の時代に、花園の左大臣と言われていた源有仁(みなもとのありひと)が、公家たちの容儀を正すために、それまでの凋装束(なえしょうぞく)から、剛装束(こわしょうぞく)にかえました。
凋装束の時には着付が下手でも目立たなかったものが、剛装束になりますと下手に着装していると、無様な姿が目立つようになりましたので、有仁が開祖となり装束全般に渡って司る衣紋道が出来ました。その衣紋道は室町中期には山科、高倉家に引き継がれ現在も山科流、高倉流として活躍されています。
お茶は室町から始まって安土桃山に完成します。お花はもっと後ですから、着付の歴史は古いのです。歴史のあるものが格式あると一般的には思われています。そういう風潮からすれば、着付も格式ということでは引けをとらないのですが、一般的にはそういう事実は知りませんので、他のお稽古事と比較しますと、着付ぐらいと侮られています。
着付は実用に即したお稽古事ですから、お稽古に行った、経験したというだけでは使い物になりません。お稽古に来た限りは出来るようになって頂きたい。 出来るようにしてあげるのが私たち指導者の使命です。美容院に行けばヘアーセット代よりも着付代の方が高いのが現実です。それは着付の技能習得は難しくて時間が掛かるということです。どんなものでも同じです。真面目に前向きに取り組まなければ一人前に出来るようにはなりません。ところが着付ぐらいと侮りを抱いているので熱心ではない。遊びの延長で取り組んでいる人も少なくないのです。そういう人達を導くには、お稽古事と人生と如何に関わっていて重要なものか、そういう事を説いて意識高揚に繋げていかなければ、皆さん出来ないままに辞めて行かれます。
昔から、日本のお稽古事は茶道、花道等と「道」が付けられています。それは技術、技能を通して心の道も学んでいただくということです。学校の勉強も技能習得も全て同じです。一番大切なことは自主性です。その自主性は人生哲学が深まれば自ずと増幅します。着付と人生論とどう関わっているかが理解できないようでは前向きにはなれないのです。勉強もそれは同じです。

2014年10月6日月曜日

幸せさがし-74

私は19歳の時に一度死にかけています。私の母も生きていた時に私に話していたことを私も経験をしました。意識がもうろうとしてきた中で、綺麗なお花畑があって、そのお花の中に何故か若くして亡くなった同僚が立って、私の方を見ています。母の場合は、おばあちゃんが立っていて呼んでいたということです。それを水上勉先生は臨死現象と表現されています。
生と死の境目にいて、仮死状態で向こうに行けばそのまま死んでしまう。こちらに戻れば生きてかえって来るという状態です。母はおばあちゃんに、「まだ子供が小さいのでそっちにはいけない」と、もうろうとした意識の中で、おばあちゃんに訴えたとよく聞かされていました。
そのことがあってから、死んでしまえば全てお終いで辛いことも経験できない。辛いことも生きている証です。生きていることの大切さを感じて、人生を充実したものにしたいとその時から強く念じていました。
全ての事柄は、ただ生きて行くためでなく、充実した生き方をするためのものなのです。
楽しむための遊びは幾らでもあります。でも遊びからは持続する心の潤いは得られない。
前向きになれば、持続して心の潤いに繋がる何かが必要です。その対象の最たるものは仕事であり、お稽古もその一つになりえるものなのです。
お茶。お花、日本舞踊などをお稽古している人は、お茶。お花。踊りは高尚で格式が高いが、それに比べて着付なんかと侮っている人を私は多く見て来ました。
でもそれらは全て業種的に言えばサービス業で、税申告をしなければいけないこと。また心の潤いや豊かさを得るための手段として存在しているという点においても全く同じなのです。
お稽古事は遊びと違って、技能習得には時間が掛かります。また、技能習得には少しの苦労や努力をいとわず、乗り越える情熱が必要です。
でも確実に技能を習得できれば、生活に幅が出来て、持続した心の潤いにつなげることができます。
そこがお稽古事のすばらしさでありますので、お稽古に来た限りは確りと出来るようになって頂きたいので、意識高揚につなげたいと様々な事柄をテーマに話しかけていました。

2014年10月5日日曜日

幸せさがし-73

農耕主体の社会から今は変わりましたが、自然の恵みがあるから人は生きて行ける。その原理原則はなにも変わっていないのです。だからこそ未だにお正月には多くの人が初詣に行き、お食い初め、宮参りから始まる通過儀礼を大切にしています。
日本の年中行事や通過儀礼のほとんどが神仏に関わる祭事です。そこに臨む場合は、最大の謝意を表すために、昔から潔斎をして晴れ着を着用するのが習わしです。
時代は変わっても生きて行く原理原則は不変で、一番感謝の意を捧げなければいけないのは神仏です。
神仏はお願いをしても叶えてくれません。それでも時折には神仏詣でをしなければと思う心が、心の豊かさにつながります。
人は社会の中で共生しています。安全で安心して生活をするには、人間関係を円滑にすることが必要です。法律は最低限度のルールであり、それだけでは暮らしやすい社会が出来ませんので礼儀作法というものがあり、その一環として衣服があります。
神社仏閣に行けば禊場が設けてあり、礼拝する前に手を洗い、口を注ぎます。それは潔斎の一環で、昔は沐浴をして、衣服も最上の服を着ました。
礼拝するときは、どこから来ました誰々ですと明確に告げなければ通じないといわれています。
それは人間関係においても同じです。人間関係を良くするには、儀礼の場に招かれれば「私も共に祝福していますよ」ということを表現しなければいけませ。その表現は言葉だけでなく、衣服も盛装をして一見して相手に分かるように伝えることは重要なのです。
感謝の意を告げるために衣服は重要な役割をしています。誰も見ていなくても、自分の心の在り方の問題です。自分の心、家族の心を大切に思うのであれば、初詣の時などは邪魔くさがらないで晴れ着を着て頂きたいとおもいます。
神仏はお願いをしても叶えてくれませんので、普段着で行っても同じでしょうと言う人がいます。
そんなことはありません。神仏の偉大さに感謝して、気持ちも衣服も改めて礼拝をすれば、普段着で行くよりも数倍良い気分になれます。
良い気分になって「よし、明日から怠けよう。悪いことしよう」という人はいません、良い気分になれば「よし、また明日から頑張るぞ」という善なる気持ちが喚起します。その気になって明日から頑張れば生活向上につながります。それが神仏詣でのご利益だと私はおもっています。

2014年10月4日土曜日

幸せさがし-72

人間の生きて行く目的は自己の人生の充実ですが、その充実は物質的な豊かさのことではありません。
衣食足りて礼節を知るで、物質的に豊かであることは生活にゆとりをもたせ、それが心のゆとりにつながることは確かです。そういう意味ではお金は大切です。お金の大切さは十分に承知していますが、でも幸せ感は哲学的には心で決まるものですから、最も重要なものは心の在り方です。
その心の充実にとって大切なことは、感謝できる心のゆとりです。
何に対して最も感謝をすべきかを考えました。
父母のことが真っ先に思い浮かぶと思います。最近は父母に対して感謝や敬愛の念を抱かない子供が増えてきており、子供は自分達の勝手な思惑や計算で親に接しますが、親は計算なく子供を慈しんでくれます。親に対しては感謝の念で一杯ですが、その親も、またその親達も大自然の恵みが無ければ生きて来れなかったことは確かです。様々な宗教が存在していますが、多くは自然崇拝が源であると言われています。
第一次産業が経済の主をなしていた時代では、大自然の恵みに感謝して自然の神々を第一に崇拝してきました。人間はある時期から団を組み、社会というものを構築して共生する様になりました。
その社会を安全で安心して生活して行くには精神的支柱が必要です。その精神的支柱として、国を挙げて神々を崇め、仏を崇めて来ました。支配者は挙って社殿を設け、潔斎をして、最上の衣服(礼服。礼装)を身に着けて、純粋に神々のお加護を祈祷しました。この祈りは、自然が猛威を振るえば人間なんかひとたまりもない脅威となりますので、穏やかで良い天候に恵まれるようにという祈りであり、秋には恵みに対する感謝の祈りをしました。祈りは努力以上の収穫が欲しいという欲望の祈りではなく、努力して頑張った分が損なわれないように、どうか天候が穏やかでありますようにという祈りです。
時代は変わりました。第一次産業はかすれてしまっています。でも大自然の恵みがあるから生きて行けることだけは何にも変わっていません。そういう意味では感謝の念は今も昔も、第一に神々に捧げなければいけないのですが、その感謝の気持ちは薄れてきています。

2014年10月3日金曜日

幸せさがし-71



 皆さんは上司の家にご挨拶に行く時に、普段着で行くでしょうか。
恐らく盛装をしていくと思います。初詣は上司の家を訪問する時と同じか、それよりも畏敬の念をもって参拝するのが昔からの習慣です。
上司への挨拶訪問は、自分を引き立てて貰えるためという現実的な思惑が絡んでいます。会社での立場は実生活にもろに関わってくることですから、良い印象を持ってもらえるように、言葉遣いや所作、そして服装まで気配りをして万全の態勢で訪問します。
ところが神仏詣では、どんな態度や服装で行っても咎められたり、悪い印象を持たれて後々まで自分が不利になるような実害はありませんので、最近では皆さん気ままな服装で参拝されます。
皆さんは考え違いをされているように思います。仕事での人間関係は、計算や思惑が働いて行動に繋がっていくのですが、果たして上司の家に訪問するのと、神仏詣でとはどちらが自分に大きなプラスとなるでしょうか。
上司が部下を大切に思うのは自分の立場を考えての計算や思惑からのものです。私の知っている人ですが、勢いのある上司に可愛がられて、上司の昇進と共に自分も引き立てられて管理職になれた人がいました。ところが上司が急死したために、上司のライバルの上役から睨まれていたために地方に左遷されたという実際の話が身近でありました。
社会に出れば競争と計算と思惑が渦巻く中で、その重圧に勝てるように頑張らなければいけないのが現実です。訪問される上司も、訪問をする部下も心に秘めた思惑で社交しているわけです。
そこに真実の感謝や思い遣りは存在しないとはいいませんが、恐らく計算と思惑の方が勝っているのが現実でしょう。
仕事には達成感という大きな喜楽が存在しますが、一般的にはそんなにドロドロした心境が渦巻く仕事場で安らぎの感じる心の潤いが得られるでしょうか。得られない立場の人が多いでしょう。
その点神仏詣ではどういうわけか、何の計算や思惑もなく素直な気持ちになれて、心が安らぎ、良い気分にさせてくれます。

2014年10月2日木曜日

幸せさがし-70

文明、文化はどんどん進展し、日本の生活習慣がそれに伴って変化してきています。でもどんなに文明、文化が進展しても人間の生きて行く目的は不変です。
楽しみ方の手段が多種多様になってきていますが、楽しみの根本目的も不変です。
その事が理解できれば、時代の流れに翻弄されることなく、地に確りと足を付けて、日常生活の中で心の潤いに繋げる生き方をすべきです。
今は物質的に豊かになりましたが、私達の子どもの頃と比較しますと、精神的に随分と貧しくなっています、それは日本には心の潤いに繋がる生活習慣があったのですが、それが経済発展と共に消滅していったことが一因であるように思います。
そして楽しみはイコールお金で得るものという考えに変化してきています。
だからお金に執着するのですが、いくら金に執着しても遊びに回せるお金には限りがあり、我慢辛抱を強いられることが多いのです。
経済的に豊かにやれば、普通に考えれば比例して心も豊かにならなければいけない筈ですが、時代の流れに翻弄されて、素晴らしい日本の生活習慣が失われ、そういうものから得られる心の磨きが損なわれて、ゆとりのない心境の人がおおくなってきています。それでは頑張って経済を豊かにしてきた意義が半減します。
心掛け次第で日常生活の中で、心の潤いに繋がることは沢山あります。
例えば衣服です。衣服には部屋着から普段着、街着、外出着、盛装、礼装と和洋を問わず存在しています。今日は家族で外食するというような時は、家族全員が外出着に着替えて食事に出かけるようにする。欧米のみなさんはそうしています。生活にメリハリを持たせれば、それだけで心の潤いに繋がります。ところが日本人は邪魔くさがって、何処に行くのも同じ服装です。お正月ですら初詣に盛装する人が皆無になってきています。楽な動きが出来る実用性ばかりを優先させた選択をされているわけですが、邪魔くさがらずに、心の潤いに繋がる生活習慣に戻さなければと思います。

2014年10月1日水曜日

幸せさがし-69



 着付ぐらいと侮っている人も少なくないのですが、それは終極の目的が理解できていないからです。
人の命は朝露の如く消え去る短いものだと言われています。短く必ず果てて行く命だからこそ、華のある人生にしたいと誰もが願っています。
そのために懸命に勉強し、懸命に働き、結婚をして家族を慈しんでいます。全ての行為は生きるためであり、華のある人生にするためです。
その華は心の輝きです。言葉を変えれば心の潤い、豊かさのことであり、心の潤いは喜楽によってもたらされるものです。この人生哲学が理解できていれば、生きて行く目的は喜楽の追及であることがわかります。
飲食、お洒落、旅行など様々な娯楽は、お金さえあれば簡単に手にすることが出来ますので、多くの人がお金に執着します。
いくらお金に執着しても、使えるお金には限りがあり、節約しながら楽しみの方に回している人が圧倒的多数です。またお金で得られる喜楽は刹那的です。それが実態ですから、お金に執着すればかえってストレスが溜まってしまいます。
その点、お稽古事は無くても生活に何の支障もないものですが、お稽古で得られる教養を身に付けていれば、日常の生活に役立ち、何時でも喜楽を増幅させることが出来ます。
例えば、今日は主人と待ち合わせをして食事に行くので「着物でも着て行こうかなぁー」と思って、実行すれば洋服と違って目立ちますので、多くの人から注目され良い気分になれます。またご主人が奥さんの着物姿を見ればきっと喜んで誇らしげに手をつないで歩いてくれるでしょう。
お部屋を掃除してスッキリしたので、お盆点てでお薄を頂く、なんとも清々しいひと時ではないでしょうか。
教養があれば心掛け次第で、生きて行く目的である心の潤いを、日常生活の中で幾らでも得ることができるのです。
着付も根本目的は人生の充実に関わっているものですから、お稽古に来た限りは出来るように成っていただきたいのです。